「百本の釘」

イタ友が「百本の釘」の感想をメールしてくれました。「この映画は見る価値ないよ」って言った友達です(過去記事はこちら)。

以下、友人のメール

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エルマンノ・オルミは「百本の釘」の主人公を神に似せようとしたのだと思う(話し方や外見ももちろんだけど、イスラエル人のラズ・デガンを起用したということも単なる偶然ではないと思う)。そして主人公は、百本の釘を書物に打ち込むという行いによって教会というものを否定するわけなのだけど、監督がそこに込めたメッセージは次のようなものだと思う。

「私は教会(バチカン)の在り方を否定するのです。なぜなら、神は私達の日常生活の中に存在するものであり、豪奢な教会の図書館やバチカン(教会)の中に存在するものではないのですから。」

で、私がこの映画を好きじゃなかった理由は、メッセージの表現の仕方なの。ラズ・デガンは美形で非の打ち所がない、その一方で、住民はとっても平凡で印象も薄い。このことは、作品をいかにも作り物という印象にしてしまったと思うの。

ちょっと話はそれるけど、そういえば劇場公開前の宣伝がちょっと変わってたのよね。というのも、ポスターには釘が打ちつけられた書物のシーンが使われていたわけだけど(そういえばこの釘、よく絵画に描かれている、キリスト磔刑の釘と大きさも形状もそっくり)、そのポスターの横には「百冊の書物は、友人と飲む一杯のコーヒーほどの価値もない」といった意味の宣伝文句が書かれてあったの。映画を観るまで、私にはこのフレーズとポスターとの関連性が全くわからなかったものだから、一体何が言いたいわけ?って不思議に思ってたのよね。でも映画を観て、監督が教会、つまりバチカン(そしてその閉鎖性)を批判していることがわかったし、そのことによって漸くこのフレーズに込められた真意も理解できたってわけ。
ともかくイタリア人にもかなり理解しにくい映画であったことは確かよ。とはいってもおそらくこの難解さは、パチカンへの批判をストレートに表現したくなかったが故の監督の意図なのかもしれない。

以上、私の感想を述べたわけなんだけど、あくまで私個人の意見だから他のイタリア人がどう感じたかはわからないの。話し合ってもいないし。それに実を言うとこの映画、それほど話題にならなかったのよ。

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以上が、彼女の感想でした。カタログの解説よりずっと理解しやすくて、いろんなことにも気付かせてもらって、なるほどー、そういう視点でもう一度観てみたら、一度目とは違った発見ができるかも・・・と思いました。

尚、ラズ・デガンの声は吹き替えだったのそうです。イスラエル人ということはイタリア語が話せないってことなのでしょうか。あるイタリア人の映画評論家は、いっそのことラズ・デガンにイタリア語を喋らせた方が、遠方から来た神のイメージをより強く打ち出せたのではないかと述べていました。

イタリア映画には(特に宗教性の高い映画には)、日本人が理解しにくい内容の作品も多いので、多少でも予備知識があったほうがより深く理解できるのでしょうね。来年からは映画祭上映作品のイタリアでの評判や批評などを読んでから映画祭に臨もうかな、とふと思いました。

といっても面倒だから多分しないだろうな~~(^^;
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by puntarellina | 2008-05-19 15:20 | イタリアあれこれ